幸福の先への後語り

えっちなゲームが好きなおたくの戯言

『ゴジラ-1.0』の感想とか

ふと特撮映画が見たくなってきたので、いま世間で少し話題になっている「ゴジラ-1.0」を見てきた。ゴジラ70周年記念の作品であり、監督は「ALWAYS 三丁目の夕日 シリーズ」や「永遠のゼロ」を手掛けた山崎 貴監督。三丁目の夕日は私も幼い頃から大好きで、当時好きな女優さんがいたのもあって何回も見返したことがある。

ゴジラは昔から大好きで近年のゴジラは勿論、平成ゴジラシリーズや一部の昭和ゴジラシリーズもよく見ていてた。人間たちがゴジラに立ち向かうのも好きだし、怪獣同士で戦うのも好きである。スペースゴジラビオランテ等のソフビをよく集めたものだ。

 

さて、そんな私が今回のゴジラを見て感じたことについて語っていこうと思う。ちなみにやや酷評気味なので、ゴジラ-1.0を見て感動を覚えた方は読まない方がいいかもしれない。

で、見終わっての純粋な感想だが、まず私の好きな特撮映画、ゴジラではなかった。本作は戦後の日本を舞台にしており、戦後ようやく復興が進んだ東京をゴジラが無慈悲に襲う、まさにゼロからマイナスになっていく様が描かれている。で、そこら辺のタイトルとの繋がりは結構好きなわけだが、序盤はとても退屈だった。肝心のゴジラが全然出てこないのである。

序盤に描かれているのは突如現れたゴジラとの戦いではなく、特攻せず逃げ帰ってきた主人公「敷島浩一」と、空襲で両親を失った女性「大石典子」、それから孤児の「明子」らに焦点を合わせた人間ドラマなのである。他にも仕事仲間や変な博士など、浩一を中心に様々な人物との関わりが描かれていく。まさにALWAYS 三丁目の夕日な内容である。

 

さきほども述べた通り私は三丁目の夕日が好きだ。好きだけれど、見たいのは戦後を生き抜く人々のドラマではない。ゴジラなのだ。

ゴジラが銀座に上陸し、街を粉々にし始めるとようやく来たかといった感じでそこそこ気分も高揚したのだが、結局あの出来事も浩一というキャラクターを肉付けるための舞台装置になっているだけで、そこが凄く残念だった。たしかに主人公が悲劇を乗り越えて逞しくなっていくというストーリーは一見すると感動的ではあるのだが、そこに対して意識を裂き過ぎており、少々不自然に感じた。

 

といった具合でゴジラはあくまでスパイスで、メインは人間ドラマだったのがこの作品を楽しめなかった最大の理由になる。監督の過去作を考えればこうなってしまうのはある意味当然であるし、この路線が間違いであったとは言わない。

現に世間では大ヒットしており、一緒に映画を見に行った知人も「面白かった。感動した。」と言っていた。無論、それを聞いた瞬間は私は信じられないといった表情を浮かべてしまったわけだが...。

 

また、終盤のシナリオに関しても結構思うところがある。それはハッピーエンドへの舵の切り方である。物語中盤辺りで浩一をかばい、典子が亡くなってしまうわけだが、最終的には寝たきりではあるが存命していることがわかる。これがもうどうしても許せなかった。あんな紙みたいに吹き飛ばされ、周りのビルは粉々。そんな状況で生きているわけないだろうと。そのみんな生きていてこそハッピーエンドだと言わんばかりの締め方にため息が出た。

なんなら私は特攻として命を賭す浩一が見たかったし、そうやって懸命にゴジラと戦った二人の墓の前で手を合わせる明子が見たかった。これは単に死人を生むことで感動を誘発させろと言っているのではなく、ゴジラの格を考えての意見である。

思い返せば今作のゴジラは弱かった。重巡の砲撃を受けただけで横に倒れ込むわ、熱戦はあまり吐かないわ、機銃で怯むわ...ゴジラと呼ぶにはあまりにも情けなさ過ぎた。他にも出現時には必ず深海魚が浮いてきたり(水圧の問題で浅海に押し上げられるためなのは理解している)、震電に対しては熱戦を吐かなかったり、ある種システム的な動きをしていたのが非常に気になった。終盤は本当に不自然さしかなかったのだ

 

振り返ってみるとやはり私は特撮映画が見たかったのであり、強くて恐ろしいゴジラが見たかったのだ。そんな状態で観に行ったのがよくなかったのかもしれない。あくまで戦後の日本を生き抜く人々のドラマを楽しむつもりで見ていたら、もう少し素直に成れたのかなと。

 

 

ああ、心躍るオタク要素満載の特撮映画が見たい。